o grande poder

標準

lua

これは変わった教育だったのだろうか。

小学校5-6年の授業では、教科書は国語以外ほとんど使われなかった。
算数は、基本的な考え方を先生が一通り教えたうえで黒板に問題を書く。
解けた人は先生のもとに行き、”先生だけに”自分がやった解き方で教える。
その解き方でGOサインがでたら、一番先にできたその人が先生になる。
わからないことは、その人に訊く。
次々と新しい先生ができて、生徒同士が教え合う。
本来の先生はその間、煙草をくゆらせながら
私たちが書いた詩や日記や評論で埋まったノートを読みふける。コメントを入れる。
隠喩が安っぽい、「何か」などという抽象的な言葉でぼやかすな、
具体的な言葉を、誰もやってないやり方で見つけ出すのが詩だろう、などなど。

社会科、理科、国語。
あるテーマを挙げ、先生はみんなに訊く。
これについて、どう思う、なぜそう思う?
何通りかに意見が分かれる。意見ごとに私たちは集まる。
さらに各々が、自分と違う意見のグループの人から一人ずつ指名し、
お互いに納得のいくまで説明する。そこで意見がかわることもある。

音楽は、先生が楽器できなかったから構成だけ決めたら、あとは自分たちでやる。伴奏とかハーモニーとか。
図工は、美術館にみんなで行って、気にいった絵を模写する。
道徳の時間は、RCサクセションのライブビデオを見る。

私たちはその後全員、地元で1、2を争うバカ中といわれる中学に進んだ。
本当に、毎日学校が楽しくてしょうがなかった。
幼稚園のときと何もかわらない。

特別難しい勉強をしていたわけではない。
人と話すこと、聞くこと、考えること、違う意見を受け入れることが
どれほど生きていく上で力になったことか
ピンチを切り抜ける度に、思い知らされるのです。

きっと今、こんな授業やったら先生は呼び出しくらうだろうな
当時もしょっちゅう呼び出されていたけどさ
これ読んだほうがいいよ、って子供にジョン・アーヴィング渡すんだもの。
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